5 12月

「赦しの絆」

私が、副牧師であった時の体験である。
ある日曜日の礼拝後、ある出来事があり、そのことについて、率直に、ありのまま伝えたところ、その信徒さんは気分を害され、六ヶ月間くらい互いに話もできず沈黙が続いた。
ところが、ある日、その信徒さんから「私が誤解してました」との言葉が私に投げ掛けられた。その信徒さんの一言が「和解」へのチャンスとなった。
それだけではなかった。実は、この一連の出来事を通して、牧師とは、信仰とはなんなのかが問われていたのである。また、互いの立ち位置を「交換」する中での「和解」とはなんなのかが問われていた。
我々人間は、「何人も赦されて生きる存在」ではなかろうか。それが、神のイメージの中で創造された人間の姿であると私は信じている。
「和解」が「赦しあう心の交流」となる人生を創造する。更には、「赦しあう心の交流」が傷ついた人間性の回復につながっていくのだというたしかさを私に与えてくれた体験となる。